河島一夫さん

舒文堂河島書店 社長

上通商栄会 会長

〜 今日は熊本の街の、特に上通周辺の歴史について伺いたいと思います。よろしくお願いします!

Q1. 早速ですが、今から150年前というと1869年で明治維新の翌年だったんですが、その時はこの辺りはどんな感じだったんでしょうか?

えっ!150年前!?そりゃ生きとらんけん分からんよ!(笑)

そうですね、その当時はまだ武家屋敷ですね。中流の人達が住んでいた武家屋敷でした。路地と路地の間に2~4軒の屋敷があったようです。

〜 屋敷は大きかったんですね。

はい、その当時からこの辺りは上通町と言われていたそうですが、当時の地図を見ると、上通「町」ではなく上通「丁」となっています。道幅は今と同じで、10.5メートルでした。

坪井川が藪ノ内のところまで来ていて、そこがこの辺りの町内の人たちの洗濯場だったそうです。それは戦前の昭和5年まで続きました。

当時「坪井米屋町」と言われていた周辺(現在の上通一番街)は商家の町です。「吉井薬局」という江戸時代から続く大きな薬局が戦前までありました。現在の広町エリアにはかつて大きな商家が多く、現在の「ジーエスハイム筑紫」というマンションがあるところ(山本屋食堂の隣)には筑後屋という大きな呉服屋があったそうです。明治以降は味噌・醤油屋さんも多くありました。

ライブハウスやアパレルショップなどが立ち並ぶ現在の「藪ノ内」エリア。かつて坪井川が流れていた

以前「坪井米屋町」と言われていた現在の上通一番街

現存する明治11年の「買い入れ帳」

Q2. その後のどう変わっていったのでしょうか?

西南戦争が大きな分岐点ですね。西南戦争では官軍が薩軍が来る前に、この一帯を焼き払いました。熊本城から薩軍の動きが一目で分かるようにするためです。

〜 住んでいた人は大変だったでしょうね・・・

ええ、みんな大騒ぎで家財道具をまとめて逃げ出したそうですよ。その後、西南戦争が終わると、皆が帰ってきました。武家の社会は終わり、行政が武家屋敷だったこの一帯を分割して売り出したそうです。

明治10年に、角から3軒目がいいということで今の土地を買ったそうです。この場所を選んだのは、先ほど話したように、洗濯場も近かったし便利だったからでしょうね。

当時この土地を買ったときの証文が今でもあります。うちは明治10年創業ですが、明治11年1月7日からの「買い入れ帳」も残っています。その頃は本だけでなく古道具なども売買していました。西南戦争後はお金に替えたい人は品物を売って、品物がない人はそれを買いに来ていたみたいですね。

Q3.今から100年前というと・・・どんな感じだったんでしょうか?

1919年、大正時代ですね。

明治13年に大谷楽器店、明治22年に長崎書店、といった形で、明治10年以降、上通に今現在も残っている多くのお店が生まれています。上通にとっては、明治20年に現在の白川公園のところに県庁が移転してきたということで、文具店や時計店、紳士服店、印鑑屋など色々な店が並びはじめました。

〜 県庁の移転がターニングポイントだったんですね~

もう一つ、県庁の移転の前から現在のホテルキャッスル周辺は学校が永くあったことも大きかったと思いますよ。師範学校は西南戦争前からあったみたいですが、その後も濟々黌、熊本中学、第一高校、城東小学校など多くの学校が開校しました。

その後、戦後に至るまで県庁と多くの学校が近くにあったことが、上通にとって大きな発展の要因だと思われます。明治時代の初めは唐人町の方が主流で、上通の方は新興商店街という感じだったのが、明治の終わりになってからは逆転しました。

現在のオークス通り・ホテルキャッスル前に立つ記念碑 かつてこの場所に熊本県立第一高等女学校(現在の熊本県立第一高校)があった

『昭和35年に造られた以前の上通アーケード』

上通商栄会編「街は記憶する」P94より

Q4. その後太平洋戦争をはさみ、今から50年前の1969年くらいはどんな感じだったんでしょうか?

私が16歳の時ですね。戦争の被害ですが、この辺りは空襲がなく、幸い戦災にあわなかったんですよ。

ただ、県庁が昭和25年に現在の桜町に移転しました。さらにその後、昭和30年に城東小学校が、昭和34年に第一高校が、それぞれ現在地に移転したのです。

街の発展を支えていた県庁と学校が無くなるということで、当時の店主の人たちは城東地区を皆で購入して、そこに交通センターの建設を県に嘆願したそうですが、結果的に実現できなかったそうです。その頃下通が戦災から立ち直り、賑わいはじめていて、下通と比べて上通が寂れてきたということで、「オーニング(アーケード)」を造ろうということで計画がすすみ、昭和35年に県下初のオーニングが完成しました。それが現在につながるアーケード商店街の始まりですね。

Q5. 今年も毎日暑いですが、以前の上通の「夏」の風景はどんな感じだったんでしょうか?

夏の一大イベントとして、「風鈴まつり」がありましたね。

〜 へ~そんな祭りがあったんですね!

えっ、「風鈴まつり」ば知らんとね?とつけむにゃあ(笑)

昭和44年以来上通で長い間やっていた祭りで、祭りの告知で熊本県下を車でまわったりしてましたし、イベントのオークションで車1台が安く買えるような企画もあって、かなりのビックイベントでしたね。当時は1000万円ほどの予算をかけていて大がかりでした。

〜 どんな内容だったんですか?

各団体対抗の綱引きなんかもやってましたよ!今では実施できませんがアーケード内での自動車ショーもありました。その他にもファッションショー、ちびっこのど自慢大会、学生エレキバンド大会、大きな盤と駒での将棋大会など盛りだくさんの内容でしたね。

―話は変わりますが、今、熊本の街なかではタピオカ屋さんがかなり増えていますが、当時そのように若者に圧倒的に支持されていたものとかありましたか??

ん~甘いものでは、この近くにあった「風月堂」のアイスキャンディは結構人気でしたね。

現在は「風月ビル」が建っているところにあった饅頭屋さんだったんだけど、そこが夏になると棒アイスを売っていて、それをみんな食べていた記憶がありますよ。

それと、50年前ごろはお好み焼き屋さんが多かったです。「こけし」とか現在もお店がある「大文字」など2~3軒あって、よく流行っていて、デートスポットにもなっていました。

当時のデートコースと言えば、蜂楽饅頭を食べて、お好み焼きを食べて、・・・という感じだったと思います。

「こけし」という店は今のタバラ洋装店の2Fにあったんですが、来店するとスタンプを押してもらえて、そのスタンプをためると小さいこけしをもらえてたんですよ(笑)

〜 ユニークなお店ですね!

デートスポットと言えば、あとは、上通エリアにも映画館が2~3軒あったとですよ。現在のパルコには「新世界」、「大劇」、それと「宝塚」という映画館がありましたね。

あと、上通の発展の歴史について、もう一つ、交通網の発達は大きかったと思います。

県庁が明治20年に移転してきて、昭和25年に移転するまで、電車網が県庁をめがけて広がっていきました(上熊本、水前寺、菊池、子飼、熊本駅方面)

やはり公共交通網の発達は街にとって大事ですもんね。私自身はこれからフードパルを起点に上熊本駅から広町、水前寺駅までのバスルートが充実すればと思ってます。これから桜町開発、および、熊本駅周辺の開発は影響があると思うので、北側の交通網が便利になることは重要だと考えています。

現在の上通1・2丁目の商店の移り変わりをまとめた図

昭和32年の図には「風月堂」の名前も

上通商栄会編「街を記憶する」P160より

Q6. 最後にKUMAMOTOPICを見られている方に一言お願いします!

ぜひ街なかに遊びに来てください!街は常に動いています。常に新しい発見があるはずです。街は買い物するだけでなく、遊びに来るところなんですよ!